論理はAND, NOT, ORで表すことが可能だ。一方で、具体的な論理命題を表現するには通常、文字や数字などを用いる。これがこの世界の原理原則であるが、例えば神についてはどうだろうか。
論理演算子も文字や数も、思考する主体に対する客体である。ここが深刻なわけで、思考の対象を自己とした途端に循環参照に陥り、取り留めのない思考しか残せなくなる。
古代人は慧眼だったのでその問題にいち早く気づいた。そこで神を措定したと僕は推測しているけれど、ともかく、主体と客体の橋渡しに神をあつらえるのは良いアイデアだ。
神学論争はこういうわけで発生するけどそれがナンセンスなのは、神は概念の余白を埋めるために要請されるし、受け入れなければ既存の体系が崩壊してしまうので存在しているのだから、実際に神がいるかいないかは”どうでもいい”ためだ。
実は神に頼らない第三の道もある。人間の主客を喪失させることだ。
自分の記憶をデジタル化したりあるいは、他者と身体の共有が可能になれば、もはや自分というものは存在しなくなる。自他の境界が崩れる世界では主体や客体を意識することはないし、そのうち自分自身がアルファベットのAになるだろう。
科学技術で人間が神になる日は、その時にとってその日が”どうでもいい日”になっていることと思う。