第二次大戦を経験した20世紀は、インターネットの登場や冷戦の終結によって華々しく締めくくられた。そうであるのだから当然、21世紀はそれを踏襲して国境が無効化されるグローバル社会になるものと世界は青写真を描いた。日本においては夢破れたバブル崩壊後、”グローバル”、”国際”という修飾語に希望を託した。
実際はどうだろうか。バブル崩壊によって大量に生み出された「氷河期世代」は、グローバル競争で敗走する日本経済で厳しい処遇を強いられた。米国が一人勝ちする時代が続いたわけだが、一方で米国国内においても格差は拡大した。「地球を囲み多人種が手を取り合う」というイラストを見るが、それはグローバリズムのお題目である一方、その実、誰とでも商売できるし資本の原理に地理的障害が取り払われただけであった。
強調したいのが、それは特段悪いことではないのだ。ただ、その体制は長続きしないだろうし、不安定性を孕んでいることが問題なのだ。21世紀は市民にとって脱グローバリズムの時代になっている。教育で教わる異文化交流というのは大抵、食とか衣服とか宗教とか、当たり障りのないものである。一方、日本から出ることもない平凡な市民が、ある日になって起こる「異文化交流」というのは、グローバル経済で安価な労働力として使われることである。
実際の生活は祭りのように訪問者ではいられないのだ。
多極化ということだが、これは真新しい発想では決してないし、歴史に基づく発想だと思う。欧州にはローマ帝国、アジアには中華帝国、そして米大陸にはフロンティアが広がっていた。そして、それぞれの地域で歴史の復興運動が起こっている。これからの大きな歴史の流れは、諸帝国による全球の統治となるだろう。
また、全球における統一システムとしての社会主義が敷かれるだろう。ただし、この社会主義は19世紀のものでも、20世紀のものでもない。人類はデジタルという新しいインフラを獲得した。社会主義が失敗する所以は計算不可能性によるものである。計画経済を行うには「十分な」データと処理ができるだけの計算資源が必要である。今やそのどちらも人類に存在する。この社会主義は忌々しい悪平等のことではない。駅前で演説している活動家のものでもなければ、テレビでコメントをする識者のものでもない。南米で活動するゲリラのものでもないし、「エンゲルス」のものでもない。ある意味での「ネオ資本主義」がやってくるだろう。